<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>西教寺｜浄土真宗本願寺派｜福岡県宗像市</title>
	<atom:link href="https://munakata-saikyouji.jp/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://munakata-saikyouji.jp</link>
	<description>らしのそばで、仏さまの教えとご縁をつなぐお寺。</description>
	<lastBuildDate>Fri, 08 May 2026 08:56:19 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=7.0</generator>

<image>
	<url>https://munakata-saikyouji.jp/wp-content/uploads/2026/02/6afdd9ee1e18d98a3833ad12f7582f0e-150x150.png</url>
	<title>西教寺｜浄土真宗本願寺派｜福岡県宗像市</title>
	<link>https://munakata-saikyouji.jp</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">252995800</site>	<item>
		<title>他力というは如来の本願力なり</title>
		<link>https://munakata-saikyouji.jp/__trashed/</link>
					<comments>https://munakata-saikyouji.jp/__trashed/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[青木 法香]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 08 May 2026 08:43:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[僧侶の法話]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://munakata-saikyouji.jp/?p=744</guid>

					<description><![CDATA[本日のご讃題は、親鸞聖人が『教行信証』行巻にお示しくださった 【他力というは如来の本願力なり】 というお言葉でございます。 皆さまは「他力」という言葉を、日常の中でお聞きになったことがあるかと思います。「他力本願」という四字熟語は、今では「自分では何もせず、人任せにすること」という意味で使われることが多いようです。新聞やテレビでも、「他力本願ではいけない」などと、どこか否定的な響きをもって語られます。けれども、これは本来の意味とは大きくかけ離れてしまっているのですね。 親鸞聖人がおっしゃる「他力」とは、決して「他人任せ」ということではございません。ご讃題にありますように、「他力というは如来の本&#8230;]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">本日のご讃題は、親鸞聖人が『教行信証』行巻にお示しくださった</p>



<div style="height:40px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:38px"><strong>【他力というは如来の本願力なり】</strong></p>



<div style="height:63px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">というお言葉でございます。</p>



<div style="height:32px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">皆さまは「他力」という言葉を、日常の中でお聞きになったことがあるかと思います。「他力本願」という四字熟語は、今では「自分では何もせず、人任せにすること」という意味で使われることが多いようです。新聞やテレビでも、「他力本願ではいけない」などと、どこか否定的な響きをもって語られます。けれども、これは本来の意味とは大きくかけ離れてしまっているのですね。</p>



<div style="height:35px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">親鸞聖人がおっしゃる「他力」とは、決して「他人任せ」ということではございません。ご讃題にありますように、「他力というは如来の本願力なり」――他力とは、阿弥陀如来さまの本願のおはたらきそのものである、とお示しくださっているのです。</p>



<div style="height:39px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">では、「本願力」とは何でしょうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">阿弥陀さまは、まだ仏となられる前、法蔵菩薩と名乗っておられた時に、四十八の願をおたてになりました。その根本にあるのが第十八願、「すべての迷える衆生を、必ず救いとる。もし一人でも漏れることがあるならば、私は仏とはならない」という、大いなる誓いでございます。</p>



<div style="height:26px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">法蔵菩薩はこの願を成就するために、五劫という、気の遠くなるような長い時間、思惟をめぐらされ、そして兆載永劫――数えきれないほどの時を、修行に捧げてくださいました。そしてついにその願が成就し、阿弥陀仏となられたのです。</p>



<div style="height:26px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">つまり、阿弥陀さまという仏さまは、「私たち一人ひとりを救いたい」という、ただその一点のために、仏となってくださった方なのです。<br>このおはたらきこそが「本願力」であり、そしてそれが、そのまま「他力」なのだと、親鸞聖人はお示しくださっているのですね。</p>



<div style="height:41px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">ここで少し、私自身のことをお話しさせていただきます。私は二十八で得度をいたしまして、今、住職になるべく日々勉強をさせていただいております。お聴聞を重ねるほどに、また経典に向かうほどに、「自分の力で何とかしよう」という心が、いかに深く自分の中に根を張っているかを思い知らされます。<br>「もっと立派な僧侶にならなければ」「もっとちゃんとお勤めをしなければ」「もっと深く味わわなければ」――そう思えば思うほど、どこか苦しくなっていく自分がおります</p>



<div style="height:25px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">そんな時、ふと立ち止まって、ご讃題のお言葉に戻らせていただくのです。「他力というは如来の本願力なり」と。<br>阿弥陀さまは、私が立派になってから救おうとおっしゃっているのではない。私が深く味わえるようになってから、迎えようとおっしゃっているのでもない。今、この、迷い、悩み、力不足を嘆いているそのままの私を、すでに願いの中に摂め取ってくださっている。そのおはたらきが、すでに私に届いてくださっている。<br>このことに気づかせていただいた時、ふっと肩の力が抜けるような、そんな思いがいたします。</p>



<div style="height:40px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">蓮如上人は『御文章』の中で、「たのむ一念のとき往生一定御たすけ治定とぞんじて」とお示しくださいました。</p>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">「たのむ」というのは、「お任せする」ということであり、それは決して「投げ出す」ことではございません。阿弥陀さまのおはたらきを、そのままいただくということでございます。<br>私たちは、しばしば勘違いをいたします。「信心」というと、何か自分の中に強い思いを起こさなければならないように感じてしまう。</p>



<div style="height:25px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">けれども親鸞聖人は、その信心さえも、「如来よりたまわりたる信心」――阿弥陀さまからいただくものだとおっしゃいます。<br>救いの側も、救われる側の信心さえも、すべてが本願力のおはたらきの中にある。これが浄土真宗の「他力」なのでございます。</p>



<div style="height:25px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">ですから、「他力本願」という言葉は、本来、何と力強く、何とありがたいお言葉でしょうか。自分の力ではどうにもならない、この煩悩具足の凡夫である私が、阿弥陀さまの大いなる願いの力によって、必ず浄土へと迎え取られていく。これほどの安心が、他にございましょうか。</p>



<div style="height:40px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">日々の暮らしの中で、うまくいかないこと、悲しいこと、腹立たしいこと、さまざまにございます。そのたびに私たちは、自分の小ささ、至らなさに気づかされます。けれども、その私を、そのまま包み込んでくださっているおはたらきが、すでにここにある。</p>



<div style="height:41px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="wp-block-paragraph" style="font-size:26px">「他力というは如来の本願力なり」――このお言葉を、どうぞ今日お一つ、お持ち帰りくださいませ。そして、日々の中で、ふとこのお言葉を思い出していただけましたら、阿弥陀さまのおはたらきが、そのたびに皆さまのお心に届いてくださることと存じます。</p>



<p class="wp-block-paragraph" style="letter-spacing:8px"></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://munakata-saikyouji.jp/__trashed/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">744</post-id>	</item>
		<item>
		<title>無明〜自分では気づけない迷いについて〜</title>
		<link>https://munakata-saikyouji.jp/%e7%84%a1%e6%98%8e%e3%80%9c%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%a7%e3%81%af%e6%b0%97%e3%81%a5%e3%81%91%e3%81%aa%e3%81%84%e8%bf%b7%e3%81%84%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%80%9c/</link>
					<comments>https://munakata-saikyouji.jp/%e7%84%a1%e6%98%8e%e3%80%9c%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%a7%e3%81%af%e6%b0%97%e3%81%a5%e3%81%91%e3%81%aa%e3%81%84%e8%bf%b7%e3%81%84%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%80%9c/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[青木 法香]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Apr 2026 06:16:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[僧侶の法話]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://munakata-saikyouji.jp/?p=693</guid>

					<description><![CDATA[みなさん、あとから「やってしまったなあ」「ああすればよかったなあ」と思うことはありませんか。 あの時は「これでいい」と思っていたのに、時間が経ってから間違いに気づく。 そんな経験、どなたにもあると思います。 実は、仏教ではこういう状態を「無明（むみょう）」 自分では気づけない迷いといいます。 今日は、親鸞聖人のご和讃を一つ皆様と一緒に味わわせていただこうと思います。 弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥を照らすなり これは、 阿弥陀さまは、はるか昔からずーっと、 私たちを照らし続けてくださっている、ということです。 しかもその光は、 「ちゃんとした人だけ&#8230;]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">みなさん、あとから「やってしまったなあ」「ああすればよかったなあ」と思うことはありませんか。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">あの時は「これでいい」と思っていたのに、時間が経ってから間違いに気づく。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">そんな経験、どなたにもあると思います。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">実は、仏教ではこういう状態を「無明（むみょう）」</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">自分では気づけない迷いといいます。</p>



<div style="height:32px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">今日は、親鸞聖人のご和讃を一つ皆様と一緒に味わわせていただこうと思います。</p>



<div class="wp-block-group" style="font-size:33px"><div class="wp-block-group__inner-container is-layout-constrained wp-block-group-is-layout-constrained">
<p class="wp-block-paragraph"><strong>弥陀成仏のこのかたは</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>いまに十劫をへたまえり</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>法身の光輪きわもなく</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>世の盲冥を照らすなり</strong></p>
</div></div>



<div style="height:19px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">これは、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">阿弥陀さまは、はるか昔からずーっと、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">私たちを照らし続けてくださっている、ということです。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">しかもその光は、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">「ちゃんとした人だけ」を照らす光ではありません。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">「やってしまったなあ」という私も照らす光です。</p>



<div style="height:16px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">たとえば、暗い部屋で足の小指をぶつけたこと、ありませんか。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">「ああっ！」ってなりますよね（笑）私もよくぶつけます…</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">あれ、電気がついてたらぶつけないんです。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">つまり見えてないからぶつかるんです。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">私たちの毎日も、ちょっと似ていまして、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">見えてないのに「ちゃんと歩いてるつもり」になっている</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">これが無明なんですね。 </p>



<div style="height:16px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">ここで大切なのは、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">&nbsp;私たちが立派だから照らされるのではないということです。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">そうではなく、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">&nbsp;迷っている私、そのままを照らしてくださっている</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">しかもその光は、今届いたものではなく、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">&nbsp;はるか昔から、ずっと変わらず届いている</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">というところに、深い意味があります。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div style="height:17px" aria-hidden="true" class="wp-block-spacer"></div>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">私たちは、「ちゃんとしなきゃ」と思って頑張りますが、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">なかなか思うようにはいきません。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">でもこの和讃は、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">そんな私をそのまま照らしてくださっている世界が、すでにある</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">ということを教えてくれます。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">今日もまた何かやってしまうかもしれませんが（笑）、</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">その私が、すでに見捨てられていない</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph">そこに安心をいただいていきたいと思います。</p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph"></p>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph"></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://munakata-saikyouji.jp/%e7%84%a1%e6%98%8e%e3%80%9c%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%a7%e3%81%af%e6%b0%97%e3%81%a5%e3%81%91%e3%81%aa%e3%81%84%e8%bf%b7%e3%81%84%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%80%9c/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">693</post-id>	</item>
		<item>
		<title>慈愛と渇愛</title>
		<link>https://munakata-saikyouji.jp/%e6%85%88%e6%84%9b%e3%81%a8%e6%b8%87%e6%84%9b/</link>
					<comments>https://munakata-saikyouji.jp/%e6%85%88%e6%84%9b%e3%81%a8%e6%b8%87%e6%84%9b/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[青木 法香]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 01 Mar 2026 03:00:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[僧侶の法話]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://munakata-saikyouji.jp/?p=623</guid>

					<description><![CDATA[十方微塵世界の念仏の衆生をみそなはし摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる 現代の言葉にいたしますと、「数えきれないほど多くの世界の念仏申す人びとをすべて見通し、しっかりと摂め取って、決してお捨てにならない。そのはたらきがあるからこそ、阿弥陀と申しあげる」という意味になります。「摂取してすてざれば」——すでに摂め取って、決して捨てない。これから救う、ということではありません。もうすでに、捨てられていない、ということなのです。阿弥陀さまは、私が気づくよりも先に、この私を決して見放さないとはたらいてくださっている仏さまです。 奈良や鎌倉の大仏さまは、座っておられます。けれども、浄土真宗のご本尊&#8230;]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">十方微塵世界の<br>念仏の衆生をみそなはし<br>摂取してすてざれば<br>阿弥陀となづけたてまつる</h2>



<p class="vk_block-margin-md--margin-top wp-block-paragraph">現代の言葉にいたしますと、<br>「数えきれないほど多くの世界の念仏申す人びとをすべて見通し、しっかりと摂め取って、決してお捨てにならない。そのはたらきがあるからこそ、阿弥陀と申しあげる」<br>という意味になります。<br>「摂取してすてざれば」<br>——すでに摂め取って、決して捨てない。<br>これから救う、ということではありません。<br>もうすでに、捨てられていない、ということなのです。<br>阿弥陀さまは、私が気づくよりも先に、<br>この私を決して見放さないとはたらいてくださっている仏さまです。</p>



<p class="wp-block-paragraph">奈良や鎌倉の大仏さまは、座っておられます。<br>けれども、浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまは立ち姿です。<br>蓮台という、もともとは座るための台の上に立っておられる。<br>昔から、「衆生を救わずにおれない本願のおこころをあらわしている」といただいてきました。<br>私たちを見て急に立ち上がった、というよりも、<br>迷いの私がいるよりも先に、<br>すでに「必ず救う」と誓われ、その願いが成就して仏となられた。<br>ですから、<br>阿弥陀さまがこちらへ近づいて来られるというよりも、<br>もうすでに、私に向かってはたらき続けてくださっている<br>そういただくのが、真宗のお味わいであります。</p>



<p class="wp-block-paragraph">先日、ある和上さまが「慈愛」と「渇愛」のお話をしてくださいました。<br>渇愛とは、「あれが欲しい」「こうなりたい」と、尽きることのない欲望のことです。<br>慈愛は、相手を思う愛です。<br>私たちは、自分にも慈愛はあると思っています。<br>けれども、本当にそうでしょうか。<br>ある女性が、入院されたお義母さんのところへ、毎日のように通い続けました。<br>最初は「何かしてあげたい」という思いだったそうです。<br>しかし、月日が経つうちに、<br>「いつまで続くのだろう」と思う自分が出てきた。<br>その自分に気づいて、涙が止まらなくなったというお話でした。<br>ここに、私たちの姿があるのではないでしょうか。<br>決して悪い人間なのではない。<br>けれども、どこかにいつも自分中心の思いが混じってしまう。<br>親鸞聖人は、私たちを「煩悩具足の凡夫」とおっしゃいました。<br>煩悩を抱えたままの存在、ということです。<br>善いことをしようと思っても、<br>その中にどこか自分の思いが入り込む。<br>それが私の現実です。</p>



<p class="wp-block-paragraph">だからこそ、阿弥陀さまの本願がありがたいのです。<br>立派になってから救う、とはおっしゃいません。<br>煩悩をなくしてから来なさい、ともおっしゃいません。<br>そのまま来い。<br>そのまま摂め取る。<br>決して捨てない。<br>それが「摂取不捨」というお言葉です。<br>私が念仏を申すということは、<br>救われるための条件ではなく、<br>すでに見捨てられていない身であることを聞かせていただく声です。<br>慈愛になろうとしても渇愛が混じる。<br>それでもなお、見放されていない。<br>その世界があるということを、<br>お伝えさせていただくご縁をいただいておりますことを、ありがたく思います。<br>南無阿弥陀</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://munakata-saikyouji.jp/%e6%85%88%e6%84%9b%e3%81%a8%e6%b8%87%e6%84%9b/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">623</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
