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2026.04.01
僧侶の法話

無明〜自分では気づけない迷いについて〜

みなさん、あとから「やってしまったなあ」「ああすればよかったなあ」と思うことはありませんか。

あの時は「これでいい」と思っていたのに、時間が経ってから間違いに気づく。

そんな経験、どなたにもあると思います。

実は、仏教ではこういう状態を「無明(むみょう)」

自分では気づけない迷いといいます。

今日は、親鸞聖人のご和讃を一つ皆様と一緒に味わわせていただこうと思います。

弥陀成仏のこのかたは

いまに十劫をへたまえり

法身の光輪きわもなく

世の盲冥を照らすなり

これは、

阿弥陀さまは、はるか昔からずーっと、

私たちを照らし続けてくださっている、ということです。

しかもその光は、

「ちゃんとした人だけ」を照らす光ではありません。

「やってしまったなあ」という私も照らす光です。

たとえば、暗い部屋で足の小指をぶつけたこと、ありませんか。

「ああっ!」ってなりますよね(笑)私もよくぶつけます…

あれ、電気がついてたらぶつけないんです。

つまり見えてないからぶつかるんです。

私たちの毎日も、ちょっと似ていまして、

見えてないのに「ちゃんと歩いてるつもり」になっている

これが無明なんですね。

ここで大切なのは、

 私たちが立派だから照らされるのではないということです。

そうではなく、

 迷っている私、そのままを照らしてくださっている

しかもその光は、今届いたものではなく、

 はるか昔から、ずっと変わらず届いている

というところに、深い意味があります。

私たちは、「ちゃんとしなきゃ」と思って頑張りますが、

なかなか思うようにはいきません。

でもこの和讃は、

そんな私をそのまま照らしてくださっている世界が、すでにある

ということを教えてくれます。

今日もまた何かやってしまうかもしれませんが(笑)、

その私が、すでに見捨てられていない

そこに安心をいただいていきたいと思います。

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【投稿者】「お知らせ」「法話」 1995年生まれ。 お寺産まれお寺育ちの次期住職。 2024年得度。

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