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僧侶の法話

他力というは如来の本願力なり

本日のご讃題は、親鸞聖人が『教行信証』行巻にお示しくださった

【他力というは如来の本願力なり】

というお言葉でございます。

皆さまは「他力」という言葉を、日常の中でお聞きになったことがあるかと思います。「他力本願」という四字熟語は、今では「自分では何もせず、人任せにすること」という意味で使われることが多いようです。新聞やテレビでも、「他力本願ではいけない」などと、どこか否定的な響きをもって語られます。けれども、これは本来の意味とは大きくかけ離れてしまっているのですね。

親鸞聖人がおっしゃる「他力」とは、決して「他人任せ」ということではございません。ご讃題にありますように、「他力というは如来の本願力なり」――他力とは、阿弥陀如来さまの本願のおはたらきそのものである、とお示しくださっているのです。

では、「本願力」とは何でしょうか。

阿弥陀さまは、まだ仏となられる前、法蔵菩薩と名乗っておられた時に、四十八の願をおたてになりました。その根本にあるのが第十八願、「すべての迷える衆生を、必ず救いとる。もし一人でも漏れることがあるならば、私は仏とはならない」という、大いなる誓いでございます。

法蔵菩薩はこの願を成就するために、五劫という、気の遠くなるような長い時間、思惟をめぐらされ、そして兆載永劫――数えきれないほどの時を、修行に捧げてくださいました。そしてついにその願が成就し、阿弥陀仏となられたのです。

つまり、阿弥陀さまという仏さまは、「私たち一人ひとりを救いたい」という、ただその一点のために、仏となってくださった方なのです。
このおはたらきこそが「本願力」であり、そしてそれが、そのまま「他力」なのだと、親鸞聖人はお示しくださっているのですね。

ここで少し、私自身のことをお話しさせていただきます。私は二十八で得度をいたしまして、今、住職になるべく日々勉強をさせていただいております。お聴聞を重ねるほどに、また経典に向かうほどに、「自分の力で何とかしよう」という心が、いかに深く自分の中に根を張っているかを思い知らされます。
「もっと立派な僧侶にならなければ」「もっとちゃんとお勤めをしなければ」「もっと深く味わわなければ」――そう思えば思うほど、どこか苦しくなっていく自分がおります

そんな時、ふと立ち止まって、ご讃題のお言葉に戻らせていただくのです。「他力というは如来の本願力なり」と。
阿弥陀さまは、私が立派になってから救おうとおっしゃっているのではない。私が深く味わえるようになってから、迎えようとおっしゃっているのでもない。今、この、迷い、悩み、力不足を嘆いているそのままの私を、すでに願いの中に摂め取ってくださっている。そのおはたらきが、すでに私に届いてくださっている。
このことに気づかせていただいた時、ふっと肩の力が抜けるような、そんな思いがいたします。

蓮如上人は『御文章』の中で、「たのむ一念のとき往生一定御たすけ治定とぞんじて」とお示しくださいました。

「たのむ」というのは、「お任せする」ということであり、それは決して「投げ出す」ことではございません。阿弥陀さまのおはたらきを、そのままいただくということでございます。
私たちは、しばしば勘違いをいたします。「信心」というと、何か自分の中に強い思いを起こさなければならないように感じてしまう。

けれども親鸞聖人は、その信心さえも、「如来よりたまわりたる信心」――阿弥陀さまからいただくものだとおっしゃいます。
救いの側も、救われる側の信心さえも、すべてが本願力のおはたらきの中にある。これが浄土真宗の「他力」なのでございます。

ですから、「他力本願」という言葉は、本来、何と力強く、何とありがたいお言葉でしょうか。自分の力ではどうにもならない、この煩悩具足の凡夫である私が、阿弥陀さまの大いなる願いの力によって、必ず浄土へと迎え取られていく。これほどの安心が、他にございましょうか。

日々の暮らしの中で、うまくいかないこと、悲しいこと、腹立たしいこと、さまざまにございます。そのたびに私たちは、自分の小ささ、至らなさに気づかされます。けれども、その私を、そのまま包み込んでくださっているおはたらきが、すでにここにある。

「他力というは如来の本願力なり」――このお言葉を、どうぞ今日お一つ、お持ち帰りくださいませ。そして、日々の中で、ふとこのお言葉を思い出していただけましたら、阿弥陀さまのおはたらきが、そのたびに皆さまのお心に届いてくださることと存じます。

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【投稿者】「お知らせ」「法話」 1995年生まれ。 お寺産まれお寺育ちの次期住職。 2024年得度。

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