十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
現代の言葉にいたしますと、
「数えきれないほど多くの世界の念仏申す人びとをすべて見通し、しっかりと摂め取って、決してお捨てにならない。そのはたらきがあるからこそ、阿弥陀と申しあげる」
という意味になります。
「摂取してすてざれば」
——すでに摂め取って、決して捨てない。
これから救う、ということではありません。
もうすでに、捨てられていない、ということなのです。
阿弥陀さまは、私が気づくよりも先に、
この私を決して見放さないとはたらいてくださっている仏さまです。
奈良や鎌倉の大仏さまは、座っておられます。
けれども、浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまは立ち姿です。
蓮台という、もともとは座るための台の上に立っておられる。
昔から、「衆生を救わずにおれない本願のおこころをあらわしている」といただいてきました。
私たちを見て急に立ち上がった、というよりも、
迷いの私がいるよりも先に、
すでに「必ず救う」と誓われ、その願いが成就して仏となられた。
ですから、
阿弥陀さまがこちらへ近づいて来られるというよりも、
もうすでに、私に向かってはたらき続けてくださっている
そういただくのが、真宗のお味わいであります。
先日、ある和上さまが「慈愛」と「渇愛」のお話をしてくださいました。
渇愛とは、「あれが欲しい」「こうなりたい」と、尽きることのない欲望のことです。
慈愛は、相手を思う愛です。
私たちは、自分にも慈愛はあると思っています。
けれども、本当にそうでしょうか。
ある女性が、入院されたお義母さんのところへ、毎日のように通い続けました。
最初は「何かしてあげたい」という思いだったそうです。
しかし、月日が経つうちに、
「いつまで続くのだろう」と思う自分が出てきた。
その自分に気づいて、涙が止まらなくなったというお話でした。
ここに、私たちの姿があるのではないでしょうか。
決して悪い人間なのではない。
けれども、どこかにいつも自分中心の思いが混じってしまう。
親鸞聖人は、私たちを「煩悩具足の凡夫」とおっしゃいました。
煩悩を抱えたままの存在、ということです。
善いことをしようと思っても、
その中にどこか自分の思いが入り込む。
それが私の現実です。
だからこそ、阿弥陀さまの本願がありがたいのです。
立派になってから救う、とはおっしゃいません。
煩悩をなくしてから来なさい、ともおっしゃいません。
そのまま来い。
そのまま摂め取る。
決して捨てない。
それが「摂取不捨」というお言葉です。
私が念仏を申すということは、
救われるための条件ではなく、
すでに見捨てられていない身であることを聞かせていただく声です。
慈愛になろうとしても渇愛が混じる。
それでもなお、見放されていない。
その世界があるということを、
お伝えさせていただくご縁をいただいておりますことを、ありがたく思います。
南無阿弥陀